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大師堂・丸山観音堂  

そうふけふれあいの里

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かつて草深小学校であった場所であり、
元禄のころには検地のため訪れた役人が止宿したという惣深陣屋跡地でもあります。



今回の目的地大師堂・丸山観音堂はこのふれあいの里に隣接した場所にあります。
この夏と秋に2回訪れました。一度目は主人の運転する車で、二度目は自転車で。

夏草を分け入るようにしてお参りしたことが強く印象に残っています。


地図だとこの辺り。

大きな地図で見る


蛇行する細い道を田んぼを右手に行くと、左側に階段が見えてきます。
見上げると上方には屋根に補修の施された建物が。

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大師堂。
建物はかなり傷んでいる様子。

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桟の隙間から覗いてみると、ずらりと祀られた大師像。
ざっと数えたところ(主人調べ)89体の像が確認できました。
全体的に土埃で真っ白になっているようです。
(田んぼの向かいという立地もあるかもしれませんが)


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《大師堂》

 文久年間(1861-63)旅の僧亮観の発案により建てられたといわれています。
 89体の大師像が祀られており、うち66体は亮観の信仰心に感銘した村人の寄進と
 いわれています。大師堂は、四国八十八ヵ所を小型化したもので、
 一堂を拝観すれば四国巡礼したのと同じご利益があるという信仰から
 当時各地方に設けられたそうです。

 印西にはこのほかにも新四国印西大師や小廻り大師(彼岸大師)などがあります。
 一地方から一村、一寺、そして一堂と霊場が縮小化され、それが重層的に存在している
 ところに印西地方の大師信仰の特色がうかがえます。
 (参考『印西名所図会』『印西町史 民俗編』)



この一か所だけで四国八十八ヵ所参りをしたのと同じご利益とは
ありがたくも効率的な話です。
(一度も四国に行ったことがない私も二回も八十八ヵ所参りをしたことに)



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それぞれの台座には年号と寄進した村人の名が刻まれています。
通し番号のようなものもあるように見えます。


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隣に印西大師第七九番のお堂。



。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

草深の大師堂にまつわる風習を。

明治の初めごろまで「もらい正月」と称して、村の若者が休みをもらいたいときに
大師堂から尊師を持ち出し畦道に並べ「休みをくれないとかたずけない」と
訴える風習があったそうです。
休日制度が確立していない当時の村のくらしを物語るもので、信仰心から
大師様を粗末にするわけにもいかず、若者の願いが認められたそうです。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

人々の信仰対象を持ち出すほどに切実な訴えであったはずとは思いつつも
「休みをくれないとかたずけない」という言い分にはつい微笑ましさも感じてしまいます。





奥へと進みます。

夏草の種が ジーンズの裾につきまくるのが気になります。
(見たことのない草でした)
地面から突き出した笹がちょっとした凶器になりかねないので、用心して進みます。




丸山観音堂。
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今まであちこち廻ってきましたが、こんなに傷みの激しいお堂は初めてではないでしょうか。
このような佇まいではありますが、市の観光先のひとつとして必ず名を連ねる場所です。


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《丸山観音堂》

 安永7年(1778)香取平左衛門信賢により創建。本尊は如意輪観音。
 この観音堂には、享和3年(1803)、香取平左衛門利彰らが願主となり
 地方の愛好者も含め52句が納められた雑俳句が奉納されています。
 読解しにくい部分もありますが、町内最古のものとして貴重です。

 ※『印西町の歴史 第四号』(p37~)に全句が掲載されています(ここでは割愛)



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観音堂右手に講中の祠


大きなイチョウの樹。
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その根元近くに立つ石碑群。


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上の写真の一番手前(下の一番奥)の碑は野鹿の碑です。(多分)

一通り撮ったつもりだったのですが、何しろ石碑の数が多すぎて。。。
正面の写真がありませんでした。


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(『印西名所図会』より)

野鹿の碑

 文政6年(1823)、香取平左衛門利彰(朋径)により建立。
 正面には朋径の歌師であったといわれる富小路貞直の
 「草婦か支野辺野まは幾の花妻を こふるをしか母色耳いでけ里」
 の歌が刻まれており、背面に華笑百合満(朋径)、松之舎與清、
 俳諧歌場眞顔の3人の歌が刻まれています。






イチョウの根元近くにはそのほかに子安観音がずらり。
気根が垂れたイチョウの樹はよく母乳信仰の対象となるそうです。
(上のイチョウの写真参照)
白井の西福寺を思い出しました。

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(中央は馬頭観音)





庚申塔群。
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《六角庚申》

 江戸のころより草深の原には成田と江戸を結ぶ江戸道(成田道)が東西に通じており、
 参勤交代の街道として、成田参詣道として重要であったほか、
 近隣の村へ通じる道が交差し道に迷いやすい難所であったため
 いたるところに道標が立てられました。
 明治15年に建てられた石塔である六角庚申塔もその一つで、六道の辻に建てられたことから
 この名で呼ばれるようになったといわれています。
 
 本来信仰的な意味から立てられましたが、飛行場工事の際お祓いをして別の場所に移され、
 現在はここ丸山観音堂の境内に建てられています。
 八角形の台座の七面には東成田道、此方佐倉道、北方船尾道、西白井道、北小林新田道、
 此方龍腹寺道と刻まれており、七方に道が通じていたことを物語る道標です。






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一面に仏像が刻み込まれた石碑。

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(拡大)



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Posted on 2012/12/12 Wed. 02:33 [edit]

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